第7代会長挨拶

鏡ヶ池会会長

ごあいさつ

2期卒業生の本多啓氏の後を襲って、7代目の鏡ヶ池会会長に就任した3期生の竹内伝史です。現在63才ですが、世の定年延長の風潮を受けて、岐阜大学(地域科学部)の教授在職中であります。ご存知の方も多いでしょうが、短い運輸省(現国土交通省)航空局勤務の後、母教室の助手を経て23年間、中部大学(赴任当時は中部工業大学と言いました)の土木工学科に勤め、土木計画学を専攻しました。12年前に、土木工学の周縁拡大を期して、現職に就いております。

生来、帰属組織への忠誠心に薄い性格ですが、それだけに、そして計画学を専攻したことと合せて、己の属する組織の社会的意義と役割を客観的に評価できるものと考えております。この万端変革の折、会長の大役を担うことは、若干のとまどいも否めませんが、せいぜい努力して相勤めますので、よろしくお願い申し上げます。

鏡ヶ池会創設の頃

私が2年生として初めて土木工学科の授業を受けた時には1期生は4年に在学中でした。それから大学院修士課程を終えるまでの4・5年の間に、名古屋大学土木工学科同窓会は発足し、「鏡ヶ池会」と命名して、活動が始まりました。もとろん、1期生(と足立教授を中心とする先生方)が中心に甚力され、私等はそれを見て育つ環境にあったのです。そして大学院に入った時(1967年)、幹事を仰せつかりました。幹事長は修士修了後助手に就任した1期生の本多義明氏(前福井大学副学長)でした。会長は卒業生最年長ということで、名古屋市役所勤務の黒川昭氏だったでしょうか。会はいわゆる親睦団体で、名簿づくりは簡単でしたし、「しゃち」の編集に熱中したことを覚えています。なにしろ、ガリ版印刷だったのですから。

私にとって重要なのは大学院終了後、1年半の航空局勤務を経て、母教室の土木計画学研究室助手に戻った時のことです。日をおかずして、鏡ヶ池会幹事長に就任することになりました。2期生の宮下力氏の後任だったと思います。間もなく、やはり工事の現場から母教室の助手に戻った同期の中村俊六氏(前豊橋技科大教授)と力を合せて、鏡ヶ池会の活動を、少なくとも学内活動に関する限り、随分活性化させたものです。この時期に、在学幹事として活躍して下さった人達が多く大学に残り、後の名幹事長として、あるいは外の社会で各種の活動を創り出してくれました。年間活動資金として100万円あるかないかの頃ですから、全く会員とくに幹事の労力のみに依存した活動でした。皆さん助手の仕事に追われ、かつ自らの学位論文を目指して研究する傍らでの活動ですからずいぶん大変だったのです。

おそらく初の幹事長経験者からの会長就任だと思いますので、このことを紹介したくて、昔話に紙幅を費しました。卒業生といえば、どの分野に就職しても、先輩がいないわけですから、今より学閥傾向の強い時代には、皆随分苦労しました。「僕の前に道はない、僕の後に道を造る」の気概が必要だったのです。したがって、逆に後輩の進出を喜び、協力を惜しまない人が多かったと思います。幹事会としても、その情報提供機関として鏡ヶ池会を活用しようとしました。一方では、そういう学閥組織に安住する他大学の同窓会を、「あんな風にはなりたくない」と僻みを交えて批判しつつ。ですから今日でも、職場であまり同窓会活動をやることには同調できない気持が、私にはあります。より後進の学校を出た人達から「傍若無人な鏡ヶ池会」と指弾されたくないからです。

成熟期に入った鏡ヶ池会

21世紀に入って、日本社会が安定成長、人口減少・少子高齢化の成熟時代に立ち到ると共に、創設40年を経過した鏡ヶ池会も成熟期に入ったと考えます。このところ土木建設業界は世間から袋叩きの感があり、それはそれなりに論陣を張って対抗せねばならないところもあるのですが、批判の大きな原因は、社会制度の変化にもかかわらずインフラ整備の制度をほとんど半世紀も前のものに頼って来たところにあると、私は考えています。鏡ヶ池会も同様に、そろそろその組織原理や活動の基本を抜本的に見直す必要があるのではないでしょうか。

ここ数年の鏡ヶ池会のおかれた状況の最大の変化は、定年退職した会員が突然かつ急速に増加しつつあることです。彼ら(まもなく私も仲間入りですが)の多くは大変元気で、宮仕えから解放され、社会経験豊かで世の中を客観的に評価できる立場にあり、なおかつボランティア精神旺盛な人達であります。彼らをどう活用するかは、日本社会全体の喫緊の課題でありますが、鏡ヶ池会としても彼らの意見開陳と談論の場を提供するサロンの機能を備える必要があります。そして例えばオピニオン誌「銀鯱」を発行するなど、その識見と指導性を後輩の会員に交流できれば、とても好都合に思います。

逆に、若い新卒あるいは在学会員に対して、私は職業柄一種の偏見を持っています。世の風潮に比して、昨今の若い人達の認識は甘いと思います。名古屋大学を卒業しているからと言って、将来は何ら保証されてはいません。学閥などさほど意識されない世の中になりました。工学部といえども大学教育がそのまま職場に繫がることは少なくなるでしょう。出身の大学など関係なく、職場では皆が横並びの競争が始まります。この意味から、若い会員にとって同窓会のメリットは減退したと言えるでしょう。同窓会は気のおけない情報交換の場を提供するに過ぎませんが、ここに上述のリタイア層の識見が伝達されれば、その効果は大きいのではないでしょうか。

そして、壮年層の情報交換の場こそ、同窓会の本命です。昨今の“土木バッシング”は明らかに異常です。短期的な経済的視野で、「日本の社会資本整備はもはや終った」とする議論は明らかに誤りです。成熟社会だからこそ必要となる生活基盤を中心とする社会資本の整備は、日本は明らかに遅れています。我々は、こういった点について理論武装する必要があります。そのための最もよい機会が同窓会の気を赦した(酒を汲みかわしつつ)議論だと思います。談合を排して、世相を考えつつ将来展望を話し合い、土木屋としての対抗策を議論したいものです。同窓会の会合を通じて土木屋の自信を回復する。ここにも、会社や役所のしがらみの消失した上述のリタイア層会員の意見が参考になりそうです。

私が今春の総会で、「鏡ヶ池会に老・壮・青の結合を」と申し上げたのは、何も周恩来に傾倒しているからではなくこのようなことを言いたかったからです。もちろんこのような同窓会活動の改革は、私の会長の間に成るものではありません。その意味では無責任の限りですが、私が幹事長を勤めた40年前と較べると10倍以上に膨らんだ会計規模を見るにつけても、より多くの会員の役割分担で、もっと楽に、多彩な同窓会活動を持続的に展開できないものかと考えています。

老・壮・青各層、海外も含めて各地域、そして各職域からの御意見を賜れば幸いです。